十番虫合絵巻

作品について

このページでは、「十番虫合絵巻」とその所蔵機関、関連書籍について紹介する。

古典知の凝縮された『十番虫合絵巻』の魅力|盛田帝子

(以下は『江戸の王朝文化復興』からの抜粋です。)

1 江戸での虫聴(むしきき)の流行と「十番虫合」

 さて、この解題では、天明2年(1782)8月に隅田川のほとりの木母寺(もくぼじ)で行われた「十番虫合」を取り上げる。この催しは、参加者が、古典テクストを出典とする世界観を洲浜の上に造り、鈴虫・松虫を鳴かせて、和歌と虫の鳴き声を競った王朝復古的物合である。京都では、堀河天皇の時代から、殿上人が野外に出て虫を採集し虫籠に入れて宮中に奉った「虫えらみ」という遊びがあったが、この頃の江戸でも、鈴虫・松虫などを虫籠に入れて売り歩く虫売りが現れ、秋の夕方、鈴虫・松虫などの声を愛でるために御座(ござ)や酒を携えて名所を訪れる「虫聴」が流行していた。 このような虫ブームの中、景雄たちとは別に、8月14日に、隅田川の堤で「虫聴」を行い、木下長嘯子「諸虫歌あはせ」に倣って恋の心を虫に寄せて詠んだ狂歌作者たちがいた。彼らの催しは、天明8年(1788)に喜多川歌麿画・宿屋飯盛(石川雅望)編『画本虫撰(えほんむしえらみ)』2巻2冊として出版されたが、『画本虫撰』は虫類に季節の草花を添えて描いた多色摺り絵本で、虫を題に詠んだ狂歌合わせの形式をとっている。「虫聴」の催しが行われたのは天明6年(1786)以前で、俗文壇の催しとしての出版ではあるが、天明2年(1782)8月に景雄グループが隅田川沿いで行った雅びな催し「十番虫合」、またこの催しを彩色画と和文・和歌で記録した『十番虫合絵巻』の影響を受けている可能性がある。
 このように、当時の江戸の俗文壇にも影響を与えた可能性のある「十番虫合」の催しを、ここではホノルル美術館所蔵『十番虫合絵巻』から繙いてゆく。

2 王朝古典を主な典拠とする「十番虫合」と概要

 三島景雄の跋文によれば、「十番虫合」の催しは、天明2年(1782)8月10日過ぎに隅田川のほとりの木母寺で行われた。主催者は幕府旗本であった源(川村)蔭政。参加者は各番2名ずつで男女合わせて20名。大名、旗本、幕府御用達商人や医師、職人などの男性歌人に女性歌人も含め、身分の上下に関係なく同座しての催しであった(本サイト「人物解題」参照)。幕府御用達の呉服商であった三島景雄は、先に述べたように、江戸にありながら、宝暦8年(1758)7月、有栖川宮職仁親王に入門し(宮内庁書陵部所蔵マイクロフィルム『入木門人帖〔寛延二―明和六〕有栖川宮家』ネガ番号130)、関東の歌目代として、江戸の有栖川宮門人を束ねるという位置にあった歌人で、安永8年(1779)「扇合」、天明元年(1781)「後度扇合」、「前栽合」、天明2年(1782)「十番虫合」、天明4年(1784)「春秋のあらそひ」、天明6年(1786)「ふみ合」に参加しており、物合再興の中心人物で、明和9年(1780)に江戸に下向した季鷹の庇護者でもあった。季鷹は歌の判者を務めているが、参加者20名の内、季鷹の邸宅の義慣亭で行われた月次(つきなみ)歌会(天明元年~7年)に参加していた歌人は12名にも及ぶ。また、虫の判者の加藤千蔭も景雄や季鷹と親しい。このように、参加者の構成をみると、「十番虫合」の催しは、季鷹と季鷹の庇護者で『十番虫合絵巻』を作成した景雄の人的交流を中心に、三河国刈谷藩主の土井利徳といった主賓を迎えて行われた物合だったといえる。
 景雄の跋文によれば、当日は大変よく晴れて耐えがたい暑さだったが、20人の男女が、左方と右方に分かれて、左方は鈴虫にちなむ洲浜に鈴虫の歌を添え、右方は松虫にちなむ洲浜に松虫の歌を添えて勝ち負けを競った。本文と絵からは、洲浜がいずれも職人の高い技術に裏付けられた豪華絢爛な作りで、洲浜の上に薄や萩などの草花を生やし、生きた鈴虫や松虫を鳴かせていることがわかる。洲浜を造るのに多大な費用と時間が要されたことが推察されるので、歌も当日の即詠ではなく、あらかじめ詠まれていたものであろう。日が暮れる頃になると風が涼しく吹いて、秋の月の光も隅々まで行き渡ったころ、参加者は、それぞれ木母寺の端の方に出て酒を飲みながら、咲き出したばかりの庭の萩の花や華やかに鳴きかわしている虫の声を楽しんだようだ。
 ところで、このように男女が同座し、庭には萩の花が咲いて虫が鳴き、参加者は洲浜に歌を付けて出す。その洲浜の上には薄や萩や紫苑などの秋草を生やし、生きた鈴虫や松虫が鳴いているという「十番虫合」の催しの趣向は、何を出典としているのだろうか。
 以下に、村上天皇第4皇女規子(きし)内親王が主催し、天禄3年(972)8月28日に行われた規子内親王前栽歌合(判者源順)の催しについて記された部分を掲げる。

 斎宮に男女房分きて、御前の庭の面に、薄・荻・蘭・紫苑・芸(くさのかう)・女郎花・刈萱・瞿麥・萩などを植ゑさせ給ひ、松虫・鈴虫を放たせ給ふ。人人に、やがてそのものにつけて、歌を奉らせ給ふに、おのが心心、我も我もと、あるは由ある山里の垣根に小男鹿(さをしか)の立ちより、あるは限りなき洲浜の磯づらに芦田鶴の下り居る形をつくりて、草をも生ほし、虫をも鳴かせたり。(下略)
(「天禄三年八月廿八日規子内親王前栽歌合」廿巻本『平安朝歌合大成 二』同朋舎、1979年)

 男女が出座し、庭には薄や萩などの秋草を植えて松虫・鈴虫を放ち、物(洲浜)と歌とを合わせ、洲浜の上には草を生やし、虫を鳴かせたという趣向は「十番虫合」と極めて似ている。 また、「十番虫合」の各番の洲浜の典拠を掲げると以下のようになる。太字は平安時代の古典作品。

一番左 『古今和歌集』『源氏物語』右 「大井川行幸和歌序」
二番左 『源氏物語』右 『古今和歌集』
三番左 『兼盛集』右 『古今和歌集』仮名序
四番左 〔鷹狩の道具にちなむ趣向〕右 『新千載和歌集』
五番左 『詞花和歌集』『無明抄』右 『浅茅が露』
六番左 『忠見集』右 『元輔集』
七番左 『源氏物語』右 『古今和歌集』
八番左 『拾玉集』右 『拾遺和歌集』
九番左 『和漢朗詠集』右 『新古今和歌集』
十番左 『源氏物語』右 『源氏物語』
 洲浜の多くが平安時代の作品を典拠として造られていることが知られる。「十番虫合」は、その催しや洲浜の趣向など、多くを王朝の古典を典拠として再興されていたことが知られるのである。各番の具体的な趣向については、書籍版注釈の「作り物の趣向」および「読みのポイント」を参照されたい。

3 「十番虫合」が木母寺で行われた理由

 さて、王朝の文学作品に憧れる彼らが隅田川のほとりの木母寺で「十番虫合」を再興したのはなぜなのだろうか。寛政4年(1792)に刊行された『隅田川往来』には、以下のような記事がある。

 隅田川、東武第一の名所にして、代々(よよ)歌(うた)人秀逸を残されし中に、取わけ伊勢物語に業平朝臣の英吟は、普く世にしれり。扨、このすみだ川、もとは隅田川と云しよし。謂(いはれ)はすだ村の川なれば也。川上は荒川といふ。梅若丸の寺は梅柳山木母寺といへり。本堂の傍に柳を植てしるしとし、柳のもとに小社(こやしろ)有て、梅若の塚とす。殊勝なる道場なり。此往来も此地を第一として其辺一二里の間を順行せんと欲する趣向なり。来てみればむさしの国の江戸からは北とひがしのすみだ川かな。

 『隅田川往来』の本文には、隅田川は武蔵国第一の名所であり、代々歌人が優れた歌を残している所であるが、とりわけ『伊勢物語』の主人公に擬せられた業平が隅田川のほとりで「名にしおはばいざ言問はむ都どりわが思ふ人は有りやなしやと」と詠んだことが有名だという趣旨のことが記されている。18世紀後半、宮廷のみやびにあこがれて、王朝の「虫合」を再興しようとした彼らにとって、『伊勢物語』の業平に擬せられる男が隅田川を眺めながら遠くにある京都を思い浮かべ、また江戸時代に入ってからも近衛信尹や有栖川宮幸仁親王などの堂上歌人が業平歌を本歌とする和歌を多く詠んだ(『紫の一本(ひともと)』)隅田川沿いは、京の都のみやびを呼び起こす歴史的な地点として「虫合」を再興する格好の場所であっただろう。
 また、『隅田川往来』(寛政4年版)には「梅柳山木母寺」から眺めた「隅田川八景之図」(待乳晴嵐、潮入夕照、駒形帰帆、橋場夜雨、隅田川秋月、関屋落雁、富士暮雪)が描かれており、本文には、隅田川のほとりの木母寺の本堂の傍らに柳の木があり、その下に梅若塚があって、木母寺からの眺めは、隅田川沿いの中でも第一の景勝地であったことが記されている。景雄の跋文に、隅田川が眺められる木母寺の端の方に出て酒を飲みながら、秋の月や庭の萩や虫の音を楽しんだことが記されていたことを思い出せば、当時景勝地として有名であった木母寺は「虫合」という典雅な催しを行うには最適の場所だっただろう。
 さらに、『江戸名所図会』巻7には「寛文の始、大樹此地に御遊猟の砌、当寺を御建立ありて、新殿など造らせ給ひぬ」とあり、徳川家綱が遊猟の際に建立し新殿などを造らせたという木母寺は、歴代将軍の鷹狩の休憩所でもあり、江戸の武家歌人・堂上派地下歌人たちが、歴史上、長らく途絶えていた「虫合」を再興するのに、ふさわしい場所だったのである。

4 歌ことばと挿絵から見る「十番虫合」の趣向

 洲浜につけて出された和歌から、時間帯を表現する歌ことばを上巻・下巻ごとに抜き出すと以下のようになる。

《上巻》(催しの前半部分)→夕暮・月出の前の時間帯を表現

一番左 「露」右 「月まつ虫」
二番左 「夕露」右 「まだ出でやらぬ月」
三番
四番左 「夕暮の声」右 「秋の夕暮」
五番右 「夕露」
《下巻》(催しの後半部分)→月出の後・夜半・更くる夜の時間帯を表現
六番左 「秋の夜半」
七番左 「夕露」右 「更くる夜の月もうつろふ」
八番
九番
十番左 「千夜をふる」右 「露けき庭の面に月」
 催しの前半部分が記録された上巻(一番~五番)の和歌には、夕暮れ時、月が出る前の歌ことばが使用され、催しの後半部分が記録された下巻(六番~十番)には、月が出た後、夜半・更くる夜の歌ことばが使用されている。これは、虫合の催しが進行する速度(現実の時間)に合わせて、提出する和歌に使用する歌ことばも変化させる趣向があったためであろう。先に述べたように会場の木母寺は、歴史的にも由緒のある景勝地であった。木母寺から眺める眼前の隅田川の景色は、時間につれて刻々と表情を変化させてゆく。室外の秋の夕暮れや庭の夕露、移り変わる月と室内の洲浜や和歌との連続性・体感をねらいとして、洲浜や和歌は前もって準備されていたと考えられる。
 さて、洲浜の上には生きた鈴虫・松虫が置かれたことを先に述べたが、和歌にはどのように表現されていたかを見てみよう。
一番左 利徳 雨ならでふりつつ虫の鳴くなへにきてもみるべく萩が花笠右 季鷹 玉琴のしらべにいつの秋よりかまつ虫の音もかよひ初めけむ
二番左 桃樹 夕露のふりぬる宿の浅茅生に昔ながらの鈴虫の声右 元貞 山の端にまだ出でやらぬ月影をなれもわびてやまつ虫の鳴く
三番左 千蔭 菊の花挿頭にせむと立よれば惜しむに似たる鈴虫の声右 景雄 松虫の鳴くなる声にひかれては秋も子の日の心地こそすれ
四番左 忠順 鷹の尾のならしばがくれ鈴虫のふり出でてなく夕暮の声右 元著 虫の音はあはれも深し葛飾の隅田川原の秋の夕暮
五番左 総幸 千種咲くなるみの野辺の鈴虫は汝がふるさとか錦着て鳴く右 芳充 住み捨てし浅茅が原の夕露に思ひ乱れてまつ虫や鳴く
六番左 房子 乱れ葦の乱るる声も鈴虫のふり捨てがたき秋の夜半かな右 八十子 女郎花多かる野辺にふりはへて人まつ虫の声しきりなり
七番左 芳章 思ひ草思ひあればや夕露に声ふり立てて鈴虫の鳴く右 正長 更くる夜の月もうつろふ秋草の下露深みまつ虫の鳴く
八番左 真恒 はし鷹の尾鈴の音にたぐふめりかりばの小野に鳴く虫の声右 有之 たのしさは千歳の秋もここに経(へ)むまつてふ虫に今日を待ちえて(⇨鳴く声の表現無し・負けの判定)
九番左 知宣 都にと急ぐ旅路もふり捨てて誰かは過ぎん鈴虫の声右 躬弦 あはれさを誰くみしらむ露深き筒井のもとのまつ虫の声
十番左 豊秋 鈴虫の鳴きよる軒の古簾千夜をふるとも声飽かめやも右 蔭政 まつ虫の鳴く音露けき庭の面に月もあはれや添へて見ゆらむ
 一番~十番までの20首のほとんどに、「鈴虫の声」「まつ虫の鳴く」など虫の鳴いている様子が詠み込まれていることが知られる。唯一の例外は、八番右の有之の和歌である。傍線を引いているように、松虫が鳴いている様子や声の表現はない。この和歌は、負けの判定を受けている。例えば、十番の歌の判詞に「左は、虫の音一首に残るくまなく聞え侍れば、かたがた、客人(まらうど)かたに勝ちを譲り給へや」(左の歌は、虫の音が一首の中にすみからすみまで余すところなく理解できますので、ご列席の皆さま、客人の方に勝ちを譲ってくださいな)とあるように、鈴虫・松虫の声(音)がきちんと表現できているかどうかが、和歌の勝敗のポイントのひとつであった。
 ここで、一番の洲浜の絵から、左の鈴虫、右の松虫の拡大写真をみてみよう(図1・2)。
 翅(はね)を広げた鈴虫や松虫が描かれている。鈴虫や松虫が鳴く時の翅が動いている状態が現実に即して描かれているのである。このように、和歌と一緒に出される洲浜の上では、生きた鈴虫や松虫が、今まさに鳴いている。当座で鳴いている鈴虫の声や松虫の声を想定して和歌は詠まれていなければならなかったのである。

5 まとめ

 昭和17年(1942)に安藤菊二氏が「十番虫合」の景雄跋文を紹介してから、足かけ83年が経った。たくさんの方々のご協力を得て、ホノルル美術館に所蔵される原本の写真、翻刻、校訂本文、現代語訳、注釈、鑑賞、英訳、そしてWEBで『十番虫合絵巻』を公開することができることとなった。18世紀後半の日本で、京都の王朝文化にあこがれる江戸の人々が、時間も空間も越えて、どのように王朝文学を再創造したのか。視覚、聴覚、嗅覚、秋風に触れる肌感覚などのすべてを想定して造られた洲浜や和歌、催し当日の彼らのパフォーマンスにも思いを馳せながら、古典知の凝縮された『十番虫合絵巻』の魅力に触れていただけたら、この上ない喜びである。

※ 本解題は、十番虫合絵巻研究会と注釈検討会の成果を踏まえた部分がある。参加された皆様にあらためて深謝申し上げます。

※ 本稿をなすにあたり、閲覧および写真掲載を許された大東急記念文庫・ホノルル美術館に深謝申し上げます。ホノルル美術館所蔵『十番虫合絵巻』の掲載写真(スコット・クボ氏撮影)は、Collection of the Honolulu Museum of Art. Purchase, Richard Lane Collection, 2003 (TD 2011-23-415).に拠ります。

※ 本解題は、書籍版の同題の盛田帝子の解題を縮約したものです。

※ 本研究はJSPS科研費JP20KK0006 の助成を受けたものです。

Bell cricket
図1 一番左 鈴虫

Pine cricket
図2 一番右 松虫

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ホノルル美術館所蔵リチャード・レイン・コレクション|南清恵

(以下は『江戸の王朝文化復興』からの抜粋です。)

 ホノルル美術館は、宣教師の娘であったアナ・ライス・クック(1853―1934)により1927年アメリカ合衆国ハワイ州に開館し、米国博物館協会の認定を受けた総合美術館である。所蔵品の総数は50,000点以上、その作品群の制作年代は約5,000年にもわたり、中でも日本美術のコレクションには特筆すべきものが多くある。2003年その日本美術コレクションにリチャード・ダグラス・レイン博士(1926─2002)が蒐集した江戸時代を中心とする約6,000点の版本と日本、中国、韓国の約3,000点の絵画、そして約850点の春画と浮世絵が加わり現在ではその質、数ともに全米でも有数の日本美術コレクションとなっている。今回の『十番虫合絵巻』もこのレインコレクションに含まれる。

リチャード・レインについて

 戦後の日本美術界における著名な人物であり浮世絵研究家・蒐集家そして美術商でもあったレインは、一九二六年にフロリダで生まれ、ニューヨーク州クィーンズで育ち、第二次世界大戦中には日本語通訳として米国海兵隊に勤務。終戦後ハワイ大学にて日本語と中国語を専攻し、カリフォルニア大学バークレー校、ミシガン大学、そしてロンドン大学でアジア諸国の言語を勉強し、1949年にコロンビア大学にて井原西鶴(1642─1693)の研究で日本文学の修士号を取得。1950年から1952年には日本に留学し、東京大学、早稲田大学、京都大学で日本文学を学ぶかたわら江戸川乱歩(1894─1965)や伊藤晴雨(1882─1961)らと交流を深めた。1953年から1954年にかけてドナルド・キーン(1922─2019)の前任者としてコロンビア大学で初級の日本語と日本文化を教えた後、1958年コロンビア大学で日本古典文学の博士号を取得。映画「南太平洋」の原作者でピューリッツアー賞作家でもあるジェームズ・A・ミッチェナー(1907―1997)からホノルル美術館に5,400点もの浮世絵が寄贈されるのを機に、レインは1959年からホノルル美術館のスタッフの一員となり、1971年まで浮世絵の研究および目録製作に携わり、その後もホノルル美術館との深い交流が続いた。Image from Floating World: Japanese Print(1978)やHokusai: Life and Work(1989)など多くの優れた著書で知られ、浮世絵に書かれているくずし字や落款を流暢に読み解き、日本の古典文学や日本美術に造詣が深いレインは学者として多くの功績を残した。

レインコレクションについて

 晩年は京都の山科で暮らしていたレインは2002年慢性の心臓病で76年の生涯を閉じた。妻に先立たれ、遺言も跡継ぎもなく亡くなった彼のコレクションは、交流の深かったホノルル美術館によって購入されハワイへ渡ることとなった。そのレインコレクション最大の特徴は一七世紀から一九世紀にかけての日本の版本で、特に師宣絵本など一七世紀の絵入り本が豊富であり、黒本や青本に関してもこのコレクションでしか確認されていない稀本が多数存在する。また絵画では中国仏教や元(1271―1368)・明王朝(1368―1644)の道教絵画や風景画、そして学者たちの集いを描いた李朝(1392―1897)時代の貴重な契会図など中国、韓国の作品にも秀作がそろっている。日本美術に関してはレインが晩年を京都で過ごした影響で、京狩野派の作品が多く、他には今回の『十番虫合絵巻』のように江戸における王朝文化復興の様子を描いた絵巻や、ホノルル美術館で三回に渡り特別展を開くことが可能となった春画、幕末から明治にかけての浮世絵の数々など、そのジャンルは多岐にわたる。膨大なレインコレクションは現在まだ調査中で、その全貌は明らかにはなっていない。そんな中、こうしてコレクションの中のひとつの作品にスポットライトが当たり、研究成果が書籍という形で世の中に紹介されることは非常に喜ばしいことである。レインの学者としての実績はすでに国際的に認知されているので、次に彼のコレクションの素晴らしさが世界に紹介されることをレイン自身も喜んでいるに違いない。

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ホノルル美術館

 2027年に創立100周年を迎えるホノルル美術館(HoMA)は、1922年にハワイ準州より美術館としての認可を受け、1927年4月8日に開館した米国博物館協会認定の美術館です。HoMAは、芸術、歴史、文化、教育が交差する集いの場であり、ハワイにおける文化的景観の重要な一部であることを目指しています。これは、創設者であるオアフ島の名家であった宣教師の家庭に生まれたアナ・ライス・クック(1853–1934)が志したものでした。芸術を高く評価する家庭で育った彼女は、同じく名家であった宣教師の家庭出身であるチャールズ・モンターギュ・クック(1849–1909)と結婚し、2人はホノルル市のベレタニア通りの一画に家を建て、その場所が後に美術館の建物となり、現在その建物はハワイ州およびアメリカ合衆国における歴史的建造物として登録されています。
 チャールズ・クックが事業で成功するにつれて、クック夫妻は美術品の収集を始めました。そしてクック夫妻の美術コレクションが自宅やプナホウ・スクールのクック・アートギャラリーに収まりきらなくなった時、アナ・ライス・クックはハワイの子供たちのために、多岐にわたるハワイ文化を反映したハワイ初となる美術館の創設を決意しました。開館以来その収蔵品と名声の両方で着実に成長したHoMAは、全米有数の美術館の一つとなりました。その後、館内には図書館、ギフトショップ、カフェ、現代美術のギャラリー、292席の劇場が併設され、現在ホノルル美術館アートスクールでは様々な美術制作のクラスを開講しています。
 HoMAのコレクションには、全米の美術館では収蔵数第三位となる北斎や広重の浮世絵、中国明・清時代の絵画、韓国高麗時代 の陶磁器などの名高いアジア美術をはじめ、モネやゴッホによるヨーロッパの絵画やホイッスラー、サージェントらのアメリカ絵画、マルチメディアによる現代美術、ハワイ・アフリカ、オセアニアの伝統的な作品、テキスタイルや装飾美術のような様々な形の作品が含まれます。それらの収蔵品の制作期間は5,000年以上にわたり、開館当時は875点であった収蔵品の総計は現在約50,000点となりました。
 美術品の収集・保存・解釈に努め、教育に貢献し、ハワイの多様なコミュニティーに適合した展示、パフォーマンス、映画、公共プログラムの提供を通じて、HoMAは現在も創設者アナ・ライス・クックのビジョンを受け継いでいます。

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関連書籍について|『江戸の王朝文化復興』(※クリックするとリンク先へ飛ぶ)

The Heian Cultural Revival in Edo

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