御挨拶|盛田帝子
(以下は『江戸の王朝文化復興』からの抜粋です。)
十八世紀後半の日本では、天皇を擁する京都でも、将軍を擁する江戸でも、尚古主義・好古主義が流行した。京都では、安永八年(一七七九)に践祚した光格天皇が権威の復興をめざして、多くの朝儀や神事を再興・復古し(藤田覚『光格天皇―自身を後にし天下万民を先とし―』ミネルヴァ書房、二〇一八年)、江戸では、八代将軍徳川吉宗の次男で、服飾や雅楽、古典文学や有職故実に造詣の深かった田安宗武が、明和二年(一七六五)に王朝儀式の復元を意識した物合「梅合」を再興した。宗武没後の安永・天明期の江戸では、堂上歌壇と関わりを持ち、『源氏物語』をはじめとする王朝文学に造詣の深い三島景雄や賀茂季鷹などが安永八年(一七七九)「扇合」、「前栽合」などの物合を次々に再興するが、王朝文化に憧れた彼らが、業平に仮託された男が都を思いながら「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(『伊勢物語』第九段)と詠んだ隅田川のほとりで再興したのが、本書で紹介する「十番虫合」という物合である。
「十番虫合」の催しについては、一九八四年の安藤菊二「三島自寛の『十番虫合』はしがき」(『江戸の和学者』青裳堂書店)を皮切りに、拙稿を含め、いくつかの研究論文で触れられており、日本国内では八点の所在が知られていた(本書所収、盛田帝子「解題―古典知の凝縮された『十番虫合絵巻』の魅力」を参照)。ある時、ホノルル美術館のスタッフでリサーチ・アソシエイトの南清恵氏から、ホノルル美術館のリチャード・レインコレクション(本書所収、南清恵「ホノルル美術館所蔵リチャード・レイン・コレクション」参照)の中に「十番虫合」に関する絵巻があるので、見てほしいという連絡を受けた。その連絡を受けて、二〇二〇年二月一八日、リチャード・レイン旧蔵の『十番虫合絵巻』を閲覧・調査すると、日本国内では、これまで最善本とされていた東京の大東急記念文庫所蔵本に引けを取らない、あるいは、それ以上の典籍であることが理解された。ホノルル美術館所蔵『十番虫合絵巻』は、「十番虫合」に出座していた三島景雄が記録し編修した絵巻物だったのである(拙稿「十八世紀の物合復興と『十番虫合絵巻』」大東急記念文庫『かがみ』第五二号、二〇二二年三月)。
私が閲覧する少し前の二〇一九年から、ハワイ大学マノア校のロバート・ヒューイ氏は、大学院生たちとともに、この『十番虫合絵巻』を、授業の教材として読み始めていた(本書所収、南清恵「『十番虫合絵巻』がハワイの教育にもたらしたもの」参照)。私が調査をしていた二〇二〇年二月二一日、ヒューイ氏と大学院生たちがホノルル美術館に来館。『十番虫合絵巻』の原本を前に、私は彼らに、『十番虫合絵巻』の解説を行った。強い関心と旺盛な知識欲に溢れる学生たちは、次々に私に質問を浴びせてくる。私はその熱意に大きな感銘を受け、また『十番虫合絵巻』という原本そのものの魅力が、彼らの熱意の根源になっていることを確信した。
日米問わずに見る者を魅了する『十番虫合絵巻』を、一緒に共同研究できないかと思った私は、その後、ヒューイ氏に連絡を取り、オンライン会議での話し合いを経て、私が代表を務める二〇二〇年~二三年度科学研究費助成事業・国際共同研究加速基金(国際共同研究強化(B))「十八―十九世紀の日本における古典復興に関する国際的研究」の一環として、オンライン上でホノルル美術館所蔵『十番虫合絵巻』の解読を中心とする国際共同研究会を行うことが決定した。日本国内では科研メンバーの盛田帝子(代表者)・飯倉洋一(研究分担者)・永崎研宣(同)・松本大(同)・山本嘉孝(研究協力者)・有澤知世(同)の各氏、海外では科研の国際研究協力者であるロバート・ヒューイ氏とハワイ大学の大学院生たち、同じく科研の国際研究協力者であるカリフォルニア大学バークレー校(UCB)のジョナサン・ズウィッカー氏と同大学の大学院生たち、さらにホノルル美術館の南清恵氏も参加して、二〇二一年四月二四日、第一回の研究会が開催された。研究会は、時差を考慮して日本時間土曜日の午前十時~午後一時に行い、その後、ほぼ毎月一回のペースで、十三回にわたって国際共同研究会が行われた。
第一回は、私がホノルル美術館所蔵『十番虫合絵巻』の概要について発表した。日本側六名、ハワイ側六名、UCB四名の計一六名が参加した。第二回は、虫合のイベントの経緯を記した跋文の注釈を私が発表するとともに、ズウィッカー氏が「いにしへ手ぶり考べきたより―文化頃前後の文芸交流と歴史意識」(Devices for Thinking About the Past:Literary Sociability and Historical Consciousness Around the Bunka Era)と題して、文化年間頃の江戸戯作者たちの好古志向について多彩な資料を駆使して発表した。第三回~第十三回は、基本的に一回ごとに一番ずつ読み進めた。跋文および一、三、五、七、十番を盛田が、二、四、六、八番を松本大氏が、九番を飯倉洋一氏が担当した。第七回のみは注釈発表を休み、諸本調査報告や打ち合わせを行った。
研究会の前半は、担当者が日本語で作成した翻刻・現代語訳・注釈(叩き台となる資料)を元に発表し、質疑応答と意見交換を行った。前半の司会は飯倉氏が担当した。後半は、ヒューイ氏を中心にハワイチームで検討した同じ番の英訳と注釈を検討した。後半の司会は山本氏が担当した。ヒューイ氏が、本書の「はじめに」で記しているように、この国際共同研究会は、想像以上の成果を上げた。毎回、活発で忌憚のない、楽しい議論が戦わされ、そしてワクワクするような論が展開された。特にヒューイ氏は日本の研究者が思いもよらない視点から、しばしば驚くような指摘をされた。また、南氏は、注釈に必要なホノルル美術館所蔵の絵図情報を臨機応変に紹介して下さった。国際研究会ならではの面白さと刺激があった。日本チームと海外チームの議論を繋ぐのに大きな役割を果たしたのは、米国で、高校・大学時代を過ごし、英語に堪能な山本氏と、ハワイ生活の長い南氏だった。
研究会での議論の記録は有澤氏が担当した。この記録のおかげで、研究会での議論を、注釈に容易に反映することができた。また、第七回からは中古文学専攻の瓦井裕子氏が参加し、和歌研究者の立場から貴重な発言を数多く行った。第十二回からは新たに研究分担者として加わった加藤弓枝氏も参加した。ハワイ大学からは、ピエール・カルロ・トンマージ氏も途中から参加し、鋭い質問をもらった。
国際共同研究会で『十番虫合絵巻』すべてを読み終えた後、二〇二三年二月二七日から、飯倉氏・松本氏・盛田の三名で、対面で注釈検討会を行い、注釈原稿を作成した。検討会は全十三回におよび、毎回二時間から長いときで六時間というハードなものだった。対面検討会の段階で、新たに『十番虫合絵巻』の和歌と、江戸期の類題和歌集との関係についての重要性が浮かびあがった。そのことを踏まえ、松本氏が類題和歌集所収和歌一覧を作成した。
本書は、このような足掛け三年の国際共同研究会・注釈検討会の成果を、日本語版(Ⅰ 本文編、Ⅱ 論考・コラム、Ⅲ 付録)と英語版(Ⅰ 本文編、Ⅱ 論文・エッセイ・コラム)として同時に出版するものである。
日本語版のⅠ 本文編の影印は、国際共同研究会で解読してきたホノルル美術館所蔵『十番虫合絵巻』を使用させていただいた。写真は、ホノルル美術館デジタルイメージエディターのスコット・クボ氏が撮影したものである。校訂本文・現代語訳・注釈は、研究会の議論・成果を踏まえた上で、校訂本文およびその凡例を松本氏が、現代語訳を飯倉氏・松本氏・盛田が、注釈を飯倉氏・松本氏・盛田が担当した。これまでの研究史を踏まえた上で、盛田が『十番虫合絵巻』の解題を執筆し、ホノルル美術館で長年にわたってリチャード・レインコレクションの目録化に携わっている南氏にコレクションについての解説を書いていただいた。
日本語版のⅡ 論考・コラムについて。英語で寄せられたターニャ・バーネット氏、ロバート・ヒューイ氏、フランチェスカ・ピザーロ氏、ヒルソン・リードパス氏、ジョナサン・ズウィッカー氏、アンドレ・ヘーグ氏の文章については、飯倉氏が日本語訳し、執筆者本人のチェックを経て、ヒューイ氏が最終チェックをした。寄稿文の内容については、ヒューイ氏の「はじめに」に触れられているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。バーネット氏、ピザーロ氏、リードパス氏、ヘーグ氏は、近世文学の専門家ではないにも関わらず、常に意欲的に研究会に参加して、さまざまな疑問を投げかけ、議論を盛り上げてくださった。彼らの寄稿文からも、常に自らの視点で対象に真摯に向き合い、考察して下さっていたことが浮かび上がってくる。日本語を母国語としない彼らが、江戸時代の雅語で書かれたテキストの解読に、長い間積極的に参加してくださったことに深く感謝している。同様に、「隅田川」をテーマに前近代と近代の風景を論じたズウィッカー氏の論考には大きな刺激を受けた。
歌合や物合の歴史の中に、「十番虫合」はどのように位置づけられるだろうか。その前提となる近世までの物合・歌合の概要について、加藤弓枝氏に「物合と歌合」と題して書いていただいた。
「十番虫合」が催された安永・天明期は、狂歌作者たちの物合も盛んに行われた。有澤知世「知識人たちの遊びと考証―十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に注目して」は、どちらも知的遊戯の場である点に注目し、戯作者を含めた江戸の雅俗両層の人々の遊び心や好古志向について説いたものである。
本文の読みと文学的背景に関わる論考としては、瓦井裕子「『十番虫合』と『源氏物語』」および山本嘉孝「『十番虫合絵巻』と漢文脈─草虫詩から花鳥画まで」が挙げられる。瓦井氏は、十番の作り物の千蔭判詞に疑問を感じたことを発端に考察を深め、山本氏は、虫の羽音を声として認識して哀れさを感じることや、虫のいる場面を美しく描くことに漢文脈の可能性を見る。
松本氏は「近世期の『源氏物語』本文と千蔭」と題して、「十番虫合」の作り物判者である加藤千蔭が『源氏物語』本文をどう取り扱ったかを論じている。
『十番虫合絵巻』には洲浜を描いた彩色画があるが、研究会に美術史の専門家が参加していなかったため、絵師は誰かという問題を含め、美術史学的に考察する困難に直面した。門脇むつみ氏に助言を仰いだが、助言のみならず「美術史研究から見た『十番虫合絵巻』の造り物」と題して興味深い貴重な論考を寄せていただいたのは大きな喜びである。
日本語版のⅢ 付録として、「人物解題」と「翻刻と校異」を付けた。「人物解題」は、「十番虫合」に参加した人々の解説を、注釈原稿を元に有澤氏がまとめた。「翻刻と校異」は、原文に忠実な翻刻を松本氏が作成し、他本との校異を盛田が作成した。
英文版の詳細については、ヒューイ氏の「はじめに」を参照していただきたいが、Ⅰ 本文編には、国際共同研究会の議論・成果を踏まえた上で、ヒューイ氏とハワイ大学のメンバーによる英訳と注釈が掲載されている。
さて、本科研(国際共同研究加速基金(国際共同研究強化(B))20kk0006)においては、研究分担者の永崎研宣氏が中心となって、『十番虫合絵巻』のテキストデータをTEI(Text Encoding Initiative)ガイドラインに準拠して広く世界に提供するための事業を、国際共同研究会と並行して推進してきた。その成果として、現在、WEB上で『十番虫合絵巻』の本文、現代語訳、英訳が、TEI(Text Encoding Initiative)に準拠して公開されている(https://juban-mushi-awase.dhii.jp/)。永崎氏の指導の下、京都産業大学研究補助員(京都女子大学大学院博士後期課程)の藤原静香氏が本文などのデータ入力に尽力したが、代表者としてDigital Representation of’ A Match of Crickets in Ten Rounds of Verse and Image’: Text Encoding and Viewer Implementation for Japanese Poetry Matchと題してTEI conference2023 2023/9/7(国際学会)で成果を発表した。
また、同じ二〇二三年九月に、飯倉氏・松本氏・加藤氏・有澤氏・瓦井氏・盛田は、ホノルル美術館で本書を出版する前の最終確認のための原本調査を行った。すでに研究会での議論を経ていたが、やはり、時間をかけて原本を見たからこそ初めてわかる絵の精巧さに気づいた。まさに今、羽を広げている鳴いている鈴虫や松虫など、描かれている虫は、ひとつとして同じ様子で描かれているものはなく、「十番虫合」の現場を写し取るかのような手法に驚いた。研究会でテキストの読みを深めていたからこそ気づいたとも言えるだろう。そして九月一五日にはハワイ大学マノア校の図書館において、『十番虫合絵巻』をめぐるワークショップが開催され、ヒューイ氏、盛田、松本氏、ヒルソン氏、南氏が研究成果を発表した。聴講者の中には研究者以外にも図書館や美術館・在ホノルル日本国総領事館の方がいらして、活発な質疑応答が続いた。本科研の開始時期がコロナ禍と重なり、長らくオンラインで国際共同研究を行ってきたが、メンバーが直接顔を合わせて議論するのは初めてのことであり、研究成果出版に向けての充実した試みとなった。
以上、国際共同研究会の振り返りを中心に記してきたが、参加してくださったすべての方々に、改めて心から感謝するとともに、読者の方々に、研究会のきっかけとなったホノルル美術館所蔵『十番虫合絵巻』のことばと絵から、十八世紀後半の日本で、京都の王朝文化にあこがれる江戸の人々が、時空間を越えて、王朝文学からどのように古典知を抽出し、何を再創造しようとしたのか、作品のもつ生命力に触れていただければ幸いである。また、参加者各位の熱意の結集である本書を、日英両方の言語で報告するという試みが、世界の日本文学研究に一石を投じることができれば、望外の喜びである。
最後に本書の編集作業に関して、特に飯倉洋一氏と文学通信の西内友美氏に多大なご尽力をいただいたことに感謝申し上げます。
なお、このプロジェクトに関わって、JSPS科研費 JP23H03696「人文学の 研究方法論に基づく日本の歴史的テキストのためのデータ構造化手法の開発」 (研究代表者:永崎研宣)および、JSPS科研費 JP22K00303「次世代の翻刻校 訂モデルを搭載した中世歌合データベースの構築と本文分析の実践的研究」 (研究代表者 加藤弓枝)のご協力を得ました。
また、本サイトのサーバーは人文情報学研究所からご提供いただきました。 記して感謝申し上げます。
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