十番虫合絵巻

御挨拶|ロバート・ヒューイ

訳者注:歌を読む前に、まず「跋文」に目を通すことをお勧めする。
この「跋文」は、情景をうまく描写し、読者が状況をよりよく理解するのに役立つ。

 時は一七八二年、天明二年。光格こうかく天皇は在位二年目、徳川家治いえはるは将軍在位二十二年目である。両者とも大きな試練に直面していた。十年にわたる局地的な災害の後、この年に始まった全国的な飢饉は数年間続き、大きな経済的・政治的混乱を引き起こした。しかし、一七八二年八月、文学の夕べを楽しむために木母寺もくぼじに集まった人々は、このような事態に影響されていないように見えた。
 現代の東京、隅田川の東岸、より名高い浅草の浅草寺の向かいにある木母寺は、梅若丸の終焉の地として有名であり、現在も祀られている。十五世紀初頭の能「隅田川」に登場する梅若丸は、京都の女性の子供だったが、奴隷商人に誘拐された。取り乱した母親は梅若丸を探し、ついに隅田川のほとりで梅若丸に追いついた。しかし、残念ながら遅すぎた。彼は病に倒れ、奴隷商人たちは彼を見殺しにしたのだ。彼女が到着したのは、彼の墓前で葬儀が執り行われるちょうどその時だった。彼女は幽霊となった彼の姿を一瞬だけ見たが、最後にはその痕跡さえも消えてしまった。この悲劇的な物語は江戸の人々の想像力をかき立て、梅若丸は絵画や錦絵を通じて一種のポップヒーローとなった。しかし、一七八二年八月に木母寺に集まった人々は、このドラマチックな物語に関心を払ってはいない。
 それどころか、夕涼みがてら寺の縁側に集まり、酒を飲み、萩の花を楽しみ、秋のさかりの虫の鳴き声、とりわけ鈴虫や松虫の鳴き声を楽しんでいる。中国では古来より、秋の虫の鳴き声は寂しさや年の暮れなどを表す詩的な表現としてよく用いられてきた(本書所収、ヒルソン・リードパス「数々の虫(cricket)の声」参照)。この二つのコオロギの正確な昆虫学的同定は時代とともに変化しているが、文学的見地から重要なのはその名前である。鈴虫の「鈴」は、小さな鈴のことで、中に球が入っていて、それが鳴り響く音の元になっている。鈴虫の鳴き声はそんな鈴の音に似ている。松虫の「まつ」は、二つの単語の掛詞である―松虫の「松」は、松の木の「松」と、誰かを慕う「待つ」である。松虫の鳴き声はより短く、より鋭く、詩歌ではしばしば憧れや主張、あるいは警告の叫びとして捉えられる。
加藤千蔭かとうちかげ(一七三六―一八〇八)と賀茂季鷹かものすえたか(一七五四―一八四一)という二人の有名な和歌の師匠を筆頭に、江戸の町の指導者、かなり地位の高い「武士」、医者、そしてその実体がよくわからない二人の女性、その雰囲気と、八〇〇年以上前の類似の文学的行事である天禄三年(九七二)の「規子内親王きこないしんのう前栽歌合せんざいうたあわせ」に触発され、彼らは歌合を開催することに決めた(▼1)。左と右の二つのチーム(方)に分かれ、鈴虫と松虫の文学性を一番ずつ競うのだ。歌の判は季鷹が行ったが、それぞれの歌の良し悪しについてはグループで話し合っていたことは明らかで、季鷹が独断的に判定したわけではない。
 そして、それぞれの歌を説明するための洲浜(このプロジェクトで、私たちはそれらを“Arrangements”と呼ぶ)を作り、その洲浜も優劣を審査した(本書所収、フランチェスカ・ピザーロ「物たちのうた」参照)。洲浜は平安時代の文学的表現を典拠とすることも多く、その典拠が洲浜によってどのように表現されているかが判定基準のひとつとなった。そして、現代人が美しい料理の皿を手にした時と同じように、そのイメージを写真に収める必要性を感じた彼らは、才能ある絵師に、この歌合に参加した書家で国学者でもある三島景雄みしまかげお(別名、三島自寛、一七二七―一八一二)が歌と判を丁寧に記録した巻物に洲浜を描かせた。
 実際、この催しのどこまでが事前に計画されたもので、どこまでが当座的なものだったのかはわからない。おそらく、酒と歌がすべての始まりだったのだろう。いずれにせよ、かなり手の込んだ洲浜をすぐに作ることはできなかっただろうし、画家たちもスケッチや練習なしに仕事を完成させることはできなかっただろう。さらに、少なくとも一人の出場者は、この日のために仙台から鈴虫を運んできている。おそらく、洲浜はチームメンバーがイメージし、デザインし、職人に任せたのだろう。それにしても、アレンジには文学史の知識がかなり感じられるし、判詞には古い作品からの長い引用が含まれている。その一方で、判詞には事実誤認も散見され、参加者たちの議論の中には、手元の資料よりも記憶に頼ったものもあったようだ。
 実際、この催しは、平安時代の宮廷的な価値観や活動の復活を目指す、数年にわたって開催された同様の一連の活動の一部であった(本書所収の盛田帝子の解題、あるいは盛田の論文・著書(▼2)を参照)。当時の日本の経済状況が危ういものであったことを考えると、それは控えめに言ってもエリート主義的なものであった。実際、参加者の一人である土井利徳どいとしなり(一七四八―一八一三)は、仙台から鈴虫を輸入した張本人であるが、領民から、領内の問題を無視し、茶道や詩歌の催しなど、軽薄と思われる活動に参加しているとして、正式に苦情を申し立てられた大名であった。
 しかし、この平安の復興には政治的な意味合いがなかったわけではない。その主催者である千蔭、季鷹、景雄は、国学者である賀茂真淵かものまぶち(一六九七―一七六九)に直接的または間接的に師事していた。彼らは日本のいにしえを復興しようと努力していたが、それは腐敗した徳川幕府と日本の危機に対処する無能さに対する暗黙の批判であった(本書所収、ターニャ・バーネット「ノスタルジアの歌学―国学と「十番虫合」」参照)。天皇を中心とした古い政治体制を復活させることは、それから一世紀も経たないうちに明治維新が成し遂げられた方法そのものであることが判明した。しかし、一七八二年に木母寺に集まった一団は、そのような革命や、ましてや帝国主義など念頭になかったように感じられる。

 私たちハワイ大学のチームは、特に私以外の全員が近代文学の専門家であるにもかかわらず、なぜこのプロジェクトに興味を持ったのだろうか? ハワイ大学の大学院生と教員は、ホノルル美術館でボランティアとしてレーン・コレクションの目録作りを手伝っていた。ある日、レーン・コレクションのリサーチ・アソシエイトである南清恵さんが、「十番虫合」を構成する二巻の巻物を私たちに見せてくれた(本書所収、南清恵「『十番虫合絵巻』がハワイの教育にもたらしたもの」参照)。私たちは何も知らないうちから、台紙の豊かさ、絵の生き生きとした細部、そして(ほとんど読めなかったが)和歌や判詞に魅了された。そして、二十枚ものセット絵画のどこかに虫が一匹ずつ描かれているという奇妙さ……。学生の一人、ヒルソン・リードパスは、〝これで何かしなければ!〟と言った。私たちは、もし美術館が巻物を展示することがあれば、何か看板を掲げられるように、テキストを書き写し、翻訳してみるのは立派な仕事だと考えた。日本のくずし字の読み方を学び、日本の伝統的な和歌を読んだ経験を生かして、見たこともない、注釈もない詩を解釈することが、現実的な方法だと考えたのだ。
 私たちは、自分たちが何に巻き込まれているのか知らなかった! ある日の午後、六人で三時間以上かけて歌一首を解読しようとしたことを覚えている! 大学院生には大学院生の仕事があるので、私たちの壮大な計画が実現する見込みがないことは明らかだったが、グループの大半は、それがいかに珍しい機会であるかという理由だけで、できる限り続けようとした。
 そんな折、この時代の江戸の歌道活動全般について研究している盛田帝子博士が、レーン文庫の存在を知った。彼女は、千蔭・季鷹グループでこの歌合や他の物合を研究しており、このレーン・コレクション所蔵品の存在を知ったばかりだった。彼女はホノルルに飛んだが、幸運なことに、彼女がホノルル美物館に巻物を見に来た日に、私たちの学生チームと教授陣の都合がついた。その二時間で、彼女が虫歌合の背景について話してくれたことすべてが、私たち自身の熱意をさらに刺激し、それが盛田教授に活力を与えた。彼女は、それが草稿ではなく、非常に高い品質の紙と装飾が施された巻物のセットであり、間違いなく非常に高い地位の人物に贈るために注意深く描かれ、書かれた清書稿であることを確信していた。彼女は日本に戻り、国際共同プロジェクトの資金を得て、令和三年(二〇二一)初頭から私たちはずっと一緒に仕事をしてきた。パンデミックはある意味で幸運だった。私たちは毎月Zoomで会うことになり、メールや一、二回の面会だけでは実現できなかった、真の意味で継続的なコラボレーションが実現したのだ。
 このコラボレーションは、関係者全員にとって刺激的な経験となった。もちろん、UHのチームは、日本の研究者たちが丹念なリサーチとアプローチを私たちと共有することで、計り知れないほどの学びを得た。同時に、私たちもいくつかの重要な見解を提供し、プロジェクトに幅広い視点をもたらした。私たちは、場合によっては日本の研究者たちとは異なるアプローチをとったとしても、私たち自身の注釈を加えるよう、励まされた。したがって、英訳は日本語の原文と日本チームが提供した学術的注釈の「単なる」翻訳ではなく、私たち自身の学術的研究の成果でもある(本書所収、アンドレ・ヘーグ「『十番虫合絵巻』の英訳によって失われたもの、そして発見されたものについて」参照)。さらに、このプロジェクトに南清恵さんが参加してくれたことも収穫だった。彼女がレーン・コレクションのデータベースを掘り起こし、研究チームが遭遇した疑問の解決に役立つエビデンスドキュメントを作ってくれたことは、一度や二度ではなかった。
 ジョナサン・ズウィッカー(カリフォルニア大学バークレー校)は、翻訳作業チームの一員ではなかったが、プロジェクトの最初と最後に歴史的な枠組みを提供してくれた(ジョナサン・ズウィッカー「「死の川」の辺りで―『十番虫歌合』以後木母寺の面影」参照)。Zoomミーティングの初期段階では、バークレー校の大学院生であるボニー・マクルーアも参加し、素晴らしい意見を提供してくれたが、彼女自身の大学院プログラムの要求により、継続的な参加は不可能となった。

訳についての注:原文にならい、私たちの翻訳では通常、左チームと右チームそれぞれの歌人、歌、作り物を指すために「左」と「右」という用語を使用する。特に断りのない限り、本文および注釈にある訳はすべて当方によるものである。ローマ字表記では、助詞の“o”を“wo”と表記する以外は、修正ヘボン式に従った。

▼注
 1 規子内親王は庭に秋の草花を植え、松虫と鈴虫を飼った。参加者たちはそれぞれの虫のよさを詠み、盆景を作った。盛田帝子は、この行事が「十番虫合」に影響を与えたと主張する。盛田帝子「十八世紀の物合復興と『十番虫合絵巻』」『かがみ』第五十二号(大東急記念文庫、二〇二二年三月)、八二~八六頁。
 2 盛田帝子「安永天明江戸歌壇の一面―『角田川扇合』を手がかりに」『雅俗』四号、一九九七年一月三十一日(雅俗の会)、一一一~一一四頁。あるいは、盛田帝子『近世雅文壇の研究』(汲古書院、二〇一三年)。
 

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